中敷きがズレてくような日々

煩悩、戯言の半径30cm

このコミュニケーション行ける?行けない?


「お前のコミュニケーションの行ける/行けないの基準がわからん」

これを言われて、本当そう見えてるだろうなと思って笑った。

言われた時の状況は
居酒屋で注文するタブレットが自分から1番遠いところにあって、次のお酒を注文するときに立ち上がって自らタブレットをいじりいった時に言われた。

たしかに僕以外のみんな、お酒を口頭で注文してタブレットに1番近い人に注文してもらっていた。

そのくらいは言えるだろということなのだが、自分にはこのときできなかった。

この店舗には紙のメニューがなく、なんのお酒があるかわからない。その中でも皆がいつもの自分の注文スタイルを持っていて、次の注文を見ずに飛び出せる。
2杯目も生ビール、ハイボール、緑茶ハイなど決まったものがある。
だから口頭で言えるのだ。

自分にはそれがなく、常に気分で決めたい。
この店舗に何があるのか。全体を眺めてから思考したい。そうなるとタブレットをその人にいじってもらうのは申し訳ないので立ち上がって見に行くこととなる。

これがこのときコミュニケーションを行けなかった自分の中での大きな理由だ。

ただ行ける行けないの基準がわからない、というのは自分がそのくらいは行ける人間だろう。言える人間だろうという認識なわけだ。

見るからにおしとやかなやつであればそんなことは言われない。
何か人が飛び越えれないコミュニケーションを飛び越えてる時があるということだ。

これも自覚がある。

最近は新しく入った子の1日目はほとんど自分が教える立場に付くことになっている。このときはすでにフランクに話すことが出来ている。
好きな音楽を聞き出したり、自分の身の上話をしたり、さらにいければ相手の身の上話も聞き出す。それなりに話すことは可能だ。

おそらくこれを出来てる人はそんなにいない。
理由として1対1ならば話すしかないからまぁまぁ強いというのもある。ただ例外もあって、調子次第では全然いけないときもある。緊張のゾーンみたいなものに入るときだ。

あと自分のダサさを出すのが躊躇がないのも特徴。むしろ嬉々として出しているときがある。
それによって相手が気を許してくれるというのも効果を発揮していると思う。

そして1番デカいのは調子いい感じで声を出しておくこと。
闇雲だと怖がられるけど、適宜声を出しておいてる。
そうしておくとこの人よく声出すなぁと明るく見えていくものだというのは近年気がついた。

このコミュニケーションはいける。


ただ会話って滞りなく行うものである。
考えすぎて、最終的に異物のようになってしまう俺はこれでいいのだろうか。

ただ俺は会話のことを考えることを愛してる。

上手くいかなくてもいいのだろう。
それによって嫌になることがあっても、考えるということを愛していたい。