中敷きがズレてくような日々

煩悩、戯言の半径30cm

一本槍

 

自分の手にした一本槍で戦って、突き進もうとする人がとてもかっこいいと思う。

何が好きなのか得意なのかをしっかり捉えて、そのジャンルの世界でなりふり構わず、槍をついて進む。

 

そこに付随する不安や面倒なことが見えても踏み込んで行くのもすごい。

 

だからお笑い好きの先で芸人になっている人。

音楽が好きでバンドをやっている人。

テレビが好きでその世界に入ってしまう人。

子供が好きで保育士になる人。

勉強が好きで塾講師になる人。

 

みんなすごいと思う。

 

自分はお笑いが好きでテレビの世界に飛び込んだけど、ボキッと折れてリタイアした人だから、そこで頑張れる体力、気力などを持ち合わせている人の凄さもとてもとてもわかる。

 

もう26歳の代にもなると、同級生に限らず、歳下の子にも何かを成し遂げている人たちがもうたくさんいる。

数少ない知り合った人々の中でも大きくなっていってる人が何人も現れてくるなかで、ずっとあのときのままで立ち止まってる自分に嫌気もさす。

 

CDショップのアルバイト。周りが我の強い人たちが多く、どこか協調性もない。

1人1人として関わるには不満はないし、楽しい人たちだが、

周りへの無関心、想像力の欠如、小さなミスの責任追求、仕事を選ぶ基準の1番に「めんどくささ」が来ていること、などをふと目の当たりにして怒りが湧き上がる。

 

先日、人の気持ちを汲めない行動をされて心が煮えくりかえった。

頭の中にCreepy Nutsの「のびしろ」が流れた。

この曲はラジオでたった1回だけしか聴いたことがないのだが、急に。

 

数時間後、仕事帰り。

イヤホンで「のびしろ」を流した。

僕は気がついたら目から涙を垂らしながら駅に向かっていた。

 

『サボり方とか、甘え方とか、逃げ方とか、言い訳の仕方とか』をやっと覚えてきたと言うのだが、僕は逆にこれを自分の一本槍にしてきた時期があった。

その方が楽でここを磨き上げれば、誰とも衝突しないことが分かって、心安らかに楽しく過ごせると思って、嬉々としてサボり続けてきた。

 

すごく間違えた一本槍を持っていた。

 

そんな自分だとなんにも残らないことが分かってから、少しずつ意識を変えてきた。

 

ここ最近感じる周りに対する怒りはこの1年くらいで湧いているもので、それまでは心安らかに楽しくやっていた。

 

どんどん楽しくなくなっていく仕事に、自分が気を遣っても感謝されることがほとんどないことに、苛立ちを隠せなくなっているのはある意味『のびしろ』なのだろう。

 

この数年、何も変わらず、いつの日かのあのときのまま立ち止まっている気持ちになっていた。だけど少しは「そんなことないんだな」と思わされた。

 

 

「嫌われ方や 慕われ方や 叱り方とか 綺麗なぶつかり方

もっと覚えたいことが山のようにある のびしろしかないわ」

 

あとは新しく使えそうな一本槍を選んで突き進まないと。